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福岡高等裁判所 昭和26年(う)2401号 判決

控訴人 被告人 中妻三郎

弁護人 柴田健太郎

検察官 長富久関与

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年に処する。

原審の訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

弁護人柴田健太郎の陳述した控訴の趣意は同弁護人提出の同趣意書記載の通りであるから茲に之を引用する。

控訴趣意第一点(刑事訴訟法第三七八条第三号該当)について。

本件記録により起訴状記載の公訴事実と、原判決認定の犯罪事実とを彼此対照すると、前者は「被告人は畦津常喜が経営する帝国カーボン工業所の福岡出張所所員として、同工業所の製品カーボン刷子の販売並に販売代金の集金の業務に従事し……云々」とあるに対し、後者は「被告人は自己の妻の実弟高橋三又の世話で、帝国カーボン工業所経営者畦津常喜との間に右工業所が製造するカーボン刷子を他に販売し、需要家より集金した販売代金の中から一定の額を右工業所に集金後直ちに入金し、その残余は口銭として被告人の取得とする旨の委託販売契約を結び、右委託販売の業務に従事中……云々」と認定し其の間何等起訴状の訂正のなかつたことは所論指摘の通りであるが、その余の罪となるべき事実、日時、場所、領得の態様等は総て両者は全く同一である。そこで斯る場合に於て原審の措置の適否につき審判するに、

論旨は斯る場合に於ては所謂罪体を変更し公訴事実の同一性を害するが故に原審の措置は違法であると言うけれども、公訴事実の同一性は、其の基本たる事実が同一であるか否によつて決定さるべきものであつて、本件に於てその基本的な事実は「被告人が帝国カーボン工業所のために販売したカーボン刷子代金を集金して保管中、これを不法に領得した」と言う一点に存するのである。

然らば両者の基本たる事実関係は全く同一であり、何等の変動をも認められないから原審の右認定は公訴事実の同一性を害したものとは言い得ない。論旨は理由なく原判決の措置は適法である。

次に論旨は仮りに公訴事実の同一性を害さないとしても斯る場合は訴因変更の手続を要するのに原審はこれを為さずして、突如として前示の如き異なる認定をしたのは、被告人の防禦に実質的な不利益を生ぜしめたものであるから違法である旨主張するけれども、もともと訴因の記載を要求される所以は問題となつておる事実を当事者に対して明かにし攻撃防禦の目標を知らしめるという点に存するのだから訴因の現実の具体的記載そのものの中に新しくあてはめようとする構成要件的特徴が現われておれば特に訴因の変更を要しないと解すべき処起訴状記載の公訴事実と原判決認定との間にその基本的事実関係に移動がないことは前説示の通りであり、業務上横領罪に於ける身分取得の原因は、それが雇傭契約に基くと、委託契約に基くと、その原因の如何はこれを問はないのである。苟も他人の業務に従事しいる事実があれば同罪の構成要件に該当する事実としては、こと足りるのである。従つて業務に従事するに至つた原因は同罪の構成要件的要素又は特徴ではない。されば業務上横領罪に於ける身分取得の原因の変動はそれはとりも直さず、訴因の枠内における移動であり、訴因の同一性を害するものではない。訴因の変らざるところに、訴因変更の手続を要する理由は存しないのみならず斯く解したからと言つて、それは被告人の防禦に実質的な不利益を生ずるものとも思えない。即ち被告人は原審に於て、雇傭契約に基く業務の存在を承認し、本件カーボン刷子は、自己が帝国カーボン工業所(畦津常喜経営)から直接買受けこれを第三者に販売したに過ぎない。従つて同工業所と自己との間に於ける法律関係は単なる売買であると主張し、その防禦に努力し来たことは所論の通りであるから右主張は原判決認定の委託販売契約にも共通した防禦の方法である。従つて被告人は原判決認定事実に対しても実質的に尽すべき防禦は尽したと言い得るのである。故に原審が審理の経過に鑑み訴因変更の手続をとらないで身分取得の原因を雇傭契約でなく委託販売契約であると認定したことは適法な措置であつて、所論のような違法は存しない。又その余の論旨は訴因変更の手続を要することを前提として展開するものであるから既にその前提に於てこれを採用し得ないこと前説示の通りであるから論旨は全部理由がない。

控訴趣意第二点(訴訟手続違反)について。

然れども原審が身分取得の原因を雇傭契約ではなく委託販売契約であると認めたからと言つて、それは前示のように被告人の防禦に著しい差異を生ずるものとは思えない。従つてその差異を生ずることを前提とする所論も亦理由がない。

控訴趣意第三点(理由のくいちがい)及び同第四点(事実の誤認)について。

然し原判決挙示の証拠を綜合すると、同判決摘示のような委託販売契約の成立したことを認め得るし又本件は転売を目的とする単なる売買ではなく前説示のように被告人と帝国カーボン工業所経営者畦津常喜間の法律関係はカーボン刷子の委託販売契約であることが明かであつて訴訟記録全般を精査検討するも原審の右認定が誤認であるとは思われないそれ故原判決には所論のような理由のくいちがいや事実誤認の違法はなく論旨は何れもこれを採用し得ない。

次に職権をもつて調査するに諸般の犯情に照せば、原判決の科刑は些か重きに失するものと思われるので此の点に於て原判決は破棄を免かれない。

そこで刑事訴訟法第三百九十七条に則り原判決を破棄し、同法第四百条但書に基き次のように自判する。

原審の認定した事実に対する法令の適用は次の通りである。

一、判示第一の罪につき

刑法第二百五十三条、昭和二十二年法律第百二十四号附則第四項、行為当時の刑法第五十五条。

二、判示第二、第三の罪につき

刑法第二百五十三条。

三、併合罪につき

刑法第四十五条前段、第四十七条、第十条(犯情の最も重い判示第一の罪の刑に併合加重)

四、訴訟費用につき

刑事訴訟法第百八十一条第一項。

以上の理由により主文の通り判決する。

(裁判長判事 筒井義彦 判事 川井立夫 判事 櫻木繁次)

弁護人柴田健太郎の控訴趣意

(一)本件起訴状記載の公訴事実は「被告人は大分市金池町畦津常喜が経営している帝国カーボン工業所の福岡出張所所員として同所の製品カーボン刷子の販売並に販売代金の集金の業務に従事していたものであるが、第一、昭和二十一年十二月二十七日頃から昭和二十二年十一月一日頃迄の間前後二十六回に亘りミトシ商事株式会社外二十五名に対し前記商品を販売した代金合計二十三万七千八百十三円を業務上保管中擅に其の頃福岡市に於て自己の生活費其の他に費消し、第二、昭和二十二年十一月十八日頃大正鉱業株式会社中鶴第一坑に前記商品を販売し之が代金一万三千三百四十円を集金業務上保管中右金員を其の頃擅に同市に於て自己の生活費其の他に費消し、第三、昭和二十二年十二月二日頃馬郡喜八商店に前記商品を販売し代金十一万八千八円を集金して業務上保管中右金員を其の頃擅に同市に於て自己の生活費其の他に費消したるものである」と謂うにある。之に対し被告人並に弁護人は原審第一回公判調書に記載してある通り被告人が畦津常吉経営の帝国カーボン工業所の所員であること換言すれば畦津常吉の雇傭人であることを争い被告人が畦津常喜の為めカーボン刷子の販売並にその代金の徴収に従事して居た事実を否認し被告人と畦津常喜との関係は単なるカーボン刷子の売買取引を為したものであつてその間民事上の債権債務の関係はあつても被告人が畦津常喜の所有たる金員を保管した事実はない旨主張し被告人が畦津常喜の使用人なりや否やを有罪無罪の分岐点とし検察官及び弁護人は専らこの争点に攻撃防禦を集中して立証を尽して来たことは原審公判調書に照し明なところである。然るに原裁判所はその判決に於て罪となるべき事実として「被告人は満洲からの引揚者であつて適当な職業もなく資本金もなくて困つていたところたまたま自己の妻の実弟高橋三又が大分市金池町帝国カーボン工業所(経営主畦津常喜)に勤務していたので同人の世話で昭和二十一年十月頃右畦津常喜との間に右工業所が製造するカーボン刷子を他に販売し需要家より集金した販売代金(運賃、包装費等の実費は需要家負担であるから之をも含む以下同じ)の中から当時の全国炭素工業協議会協定最底販売価格表の九〇乃至六五パーセント(被告人と畦津間の話合ひで被告人の取得すべき口銭の率が時により異なり一定しない)に右諸掛実費を加算したものを帝国カーボン工業所に右集金後直に入金しその残余は口銭として被告人の取得とする旨の委託販売契約を結び(尤も被告人が需要家に対し右価格表を超過した値段で販売することを許可又は黙認されたか否か許されるとすればその超過額の帰属は両者孰れになるかに付ては本件横領金額の中には右超過額を含まず本件とは直接関係がないから不問に付す)其の後福岡市紅葉町一丁目の当時の自己事務所に帝国カーボン九州ソールエーゼント中妻三郎商社なる看板を掲げて右工業所の製造にかかるカーボン刷子の委託販売の業務に従事していたものであるが第一、昭和二十一年十二月二十七日頃から昭和二十二年十一月二日頃迄前後三十数回に亘つてミトシ商事株式会社外数名に対して前記カーボン刷子を販売し之が販売代金を集金し同代金中前示契約に基き帝国カーボン工業所に入金すべき合計金三十一万八千六百四十七円十九銭中二十三万七千八百十三円余を業務上保管中其の頃数十回に亘り犯意継続の上擅に福岡市内等に於て自己の生活費其の他に費消して横領し、第二、昭和二十二年十一月十八日頃大正鉱業株式会社中鶴第一坑に前記カーボン刷子を販売し之が販売代金を集金し同代金中前示契約に基づき帝国カーボン工業所に入金すべき金一万三千三百四十円を業務上占有中之を入金しないで其の頃擅に福岡市内で自己の生活費其の他に費消して横領し、第三、昭和二十二年十二月及昭和二十三年二月の二回に馬郡喜八商店に対して前記カーボン刷子を販売し昭和二十二年十二月三十日頃から昭和二十三年六月二十二日頃迄に数回に之が販売代金を集金し同代金中前示契約に基き帝国カーボン工業所に入金すべき合計金十一万八千八円を業務上保管中之を入金しないで其の頃擅に福岡市内で自己の生活費に費消して横領したものである」と認定して居る。之を要するに検察官はその訴因として被告人は畦津常喜の雇人としてカーボン刷子を販売しその業務として代金を集めて之を保管中之を費消横領したというのに対し原裁判所は被告人は畦津常喜より委託を受けてカーボン刷子を販売し業務上その代金を保管中之を費消横領したと認定したのである。斯の如きは所謂罪体を変更し公訴事実の同一性を害して居るものと考える。仮に百歩を譲つて公訴事実の同一性を害しないものであるとしても少くとも前示検察官の訴因に含まれない別個の事実を認定したものと謂はざるを得ない。蓋し検察官は原審に於て終始一貫して被告人は畦津常喜の使用人だというようなことを主張し曽て被告人が同人から販売の委託を受けたというようなことを主張したことなく又裁判所に於て斯の如く訴因の追加変更を命じたこともないからである。

一体我刑事訴訟法上訴因の何たるやについては未だ所説区々一定しないようであるが訴因を認めた理由が審判の対象を明確にし被告人の防禦権の行使に遺憾なきを期したものであることについては異論がない。この理由と刑事訴訟法第二五六条第三項の明文とによつて考えてみると訴因とは日時場所方法を以て特定せられた事実換言すればこれらの枠を以て範囲を劃せられた一定の事実であると謂はねばならない。而して裁判所は右の枠にはめられた事実を対象として審判し被告人は之を対象として防禦権を行使すべきものである。もしこの枠が明確を欠きグラつき易きものであるとすれば起訴状一本主義の新刑事訴訟法の運用に於て、裁判所は常に左顧右眄して審理の迅速的確を期し得ず被告人は防禦の目標を正確に把握し得ず防禦に手抜かりを生ずる虞なきを保し難い。斯くては前示訴因制度を設けた目的に反することとなろう。刑事訴訟法第二五六条第三項にできる限りとあるのは訴因の内容たる事実を日時場所及方法を以て特定してもしなくてもよいという意味でなく能う限り之によつて特定しなくてはならぬがその時の状況によりこれらの条件の中どうしても不明の部分がある時はできる限りの範囲で特定しなければならないという意味に解すべきである。この意味に於て同条第四項には但書により罰条の記載の誤りは被告人の防禦に実質的な不利益を生ずる虞がない限り公訴提起の効力に影響を及ぼさないと規定して居るのに訴因の特定については斯る緩和の規定がないのに徴しても訴因の枠は劃一且厳格に判定すべきものであることを知り得るであろう。唯斯の如き訴因の枠を絶対に動かし得ないものとすれば公訴事実の同一性については変更がなくても裁判所の認定し得るところが訴因の内容と些少でも相違すれば常に無罪の判決をしなければならず検察官は更に同一の公訴事実について公訴を提起しなければならぬこととなり事件の迅速なる解決に支障を来すので刑事訴訟法第三一二条に於て公訴事実の同一性を害しない限度に於て検察官に訴因の追加撤回又は変更を許し又審理の経過に鑑み適当と認めるときは訴因の追加又は変更を命ずることを裁判所に認めて居るのである。この第三一二条あるが故に第二五六条の訴因の特定を厳格に解しても現実に刑事訴訟の運用上不都合を生ずることはないと考える。

本件に於ては前述の如く被告人が畦津常喜の使用人でありその業務上集金保管して居つた金員を擅に費消したという事実が訴因である。之に対し被告人が畦津常喜より商品の販売の委託を受けてその代金を保管中之を擅に費消したという事実は明に訴因に含まれぬ事実である。縱ひ罰条は同一であるとしてもその具体的事実が異る以上訴因の範囲外にあるものと謂わねばならない。被告人並に弁護人はもし右の如き委託販売の事実を検察官が主張するならばその然らざる所以を極力主張し之に対する立証をなしその防禦に力を尽した筈である。

然し検察官は一言半句もかかる事実の主張がないので被告人弁護人も之に対し何等主張立証するところがなかつた。然るに裁判所が突如かかる委託販売の事実を認定し被告人に有罪の判決を為す如きは被告人並に弁護人の防禦権及び弁護権を不当に奪つたものであつて被告人に十分の防禦を為さしめる刑事訴訟法の精神に反するものである。新刑事訴訟法は旧法と異り当事者主義の基盤の上に立つて居る。従つて当事者に十分の攻撃防禦を尽さしむべきであつて苟も被告人に不意打を食はせその防禦なき間隙に於て之を所罰する如きは厳に戒しめねばならぬところである。被告人は何等防禦なき側面を打撃せられた感に堪えず到底かかる裁判には服し得ない。以上の理由により原判決は審判の請求を受けた事件について判決せず審判の請求を受けない事件について判決したものであり刑事訴訟法第三七八条に該当するものと信ずる。

(二)仮に数百歩を譲つて右の裁判所の認定が訴因の変更を要しないものであるとしても右の如く被告人の防禦方法に著しい差異を生ずる場合に於ては裁判所は須らく刑事訴訟規則第二〇八条により訴訟関係人に釈明を求め立証を促すべきである。訴因の変更を要しないものとしても此の方法により被告人の防禦の利益を守るべきである。このことは刑事訴訟法第三一二条第四項の趣旨からも十分に窺い知られるところである。然るに原裁判所はかかる釈明を求め立証を促したことはない。かかることは刑事訴訟法第三七九条第一項に謂う訴訟手続に法令の違反がある場合であり且その違反は判決に影響を及ぼすこと明らかであるから原判決は此の点からしても取消さるべきものである。

(三)次に原判決の証拠関係を検討する。原判決は前述のように被告人は昭和二十一年十月頃畦津常喜と右工業所が製造するカーボン刷子を他に販売し需要家から集金した販売代金の中から当時の全国炭素工業協会協定最低価格表の九〇乃至六五パーセントに諸掛実費を加算したものを帝国カーボン工業所に集金後直に入金しその残余は口銭として被告人の取得とする旨の委託販売契約を結び福岡市紅葉町一丁目の自己事務所に帝国カーボン九州ソールエーゼント中妻三郎商社なる看板を掲げて右工業所の製造にかかるカーボン刷子の委託販売の業務に従事していたと認定しその証拠として一、証人畦津常喜、同高橋三又、同安藤八郎の原審公廷に於ける各供述、一、押収の検第一乃至第四号の各記載、一、押収の検第五号証及び検第九号証の各記載、一、押収の検第七号証の各記載、一、押収の検第八号証の記載、一、押収の弁第四号証の表面の記載、一、押収の弁第十号証の記載を挙げて居る。然し一、証人畦津常喜、同高橋三又、同安藤八郎は原審公判廷に於て原判決認定の如き委託販売契約が成立したことは全然陳述して居ない。原判決は右諸証人の供述中被告人が帝国カーボン工業所の使用人(即ち雇傭契約上の)又は之に類する者であるとの部分は被告人の主張するが如く本件取引が帝国カーボン工業所と被告人間の売買契約ではないことを強調する余り出でたものであり右証人等が本件取引の法律的判断においてそれが雇傭契約上のものか委託販売契約に基くものか判然せざりしに基因するものと認められるからその部分を除くといつて居るが被告人が畦津常喜の雇人であるか、委託販売を受けたものであるか位のことは特に法律的判断を用いずとも判ることであり同証人等が雇人であると口を揃えて終始一貫して証言して居るのは委託販売でなかつたことを証明するものである。而してこの部分を除いた部分を以てしても被告人と畦津常喜との関係が委託販売契約関係であることを確認せしめるものは何もない。それが被告人のいうように単純の売買であるか委託関係であるかはこれらの証言からははつきり知ることはできない。その他の証拠を仔細に調査しても原判決に云うような委託契約が存在したことを確認せしめるものは少しもない。唯被告人は満洲からの引揚者でありその義弟に当る高橋三又の紹介により畦津常喜から同人経営の帝国カーボン工業所に於て製造するカーボン刷子を買受け之を他に転売することとなつたので被告人は右帝国カーボン工業所を信頼し之に依拠して居つたので右押収に係る証拠に係る証拠に右の如き特別の関係が被告人と右工業所(即ち畦津常喜)との間に存したため勢い被告人は畦津乃至高橋の意を迎えその信任を得るに汲々たる如き文言が表われて居るが之を以て必ずしも被告人と畦津との間に委託関係が存したと看なければならぬ必然性はない。斯の如き文言があつても両者間には普通の売買契約が成立することは可能である。即ち畦津乃至高橋の好意に基き被告人がカーボン刷子を買受け之を他に転売してその間に利益を得ることも十分にあり得るのである、所謂「売らしてやる」という関係には単純なる転売を目的とする売買を意味することは往々世上に行われるところであり本件の如きも即ちその関係であると被告人は主張するのである。検第五号証に帝国カーボン工業所福岡出張所中妻三郎とあるのは検第三号にある如く被告人が封鎖預金を出す便宜上(帝国カーボン工業所雇入の労務者に支払うものとして封鎖預金を引出すため)工業所の領収証を送つて貰つていたのをうつかり使つた際かかる記載を為したもので、かかる領収証は後にも先にもこれ一枚だけである。尚弁第四号証に「崎戸口注文見積の件新価格表の一割引にて貴方渡しと致しますこれは本日新価格表即刻実施の入電がその筋からありました為めです悪しからず先方と御交渉下さい」とあるのは工業所の方では勿論被告人が商品を転売するものである事を知つて居り且その転売先まで通知してあつた関係上かかる記載が為されたのであり又弁第十号証に「本日の新価格表の九〇%で御見積をして下さいませんかこれ以上は兄様の御都合ですから」とあるのも同様である「これ以上は云々」の如きは寧ろ委託販売に非ずして単純なる転売を目的とする売買であることの証左となし得ると思う、弁第二号証に「新表は最低価格表ですからその意味で受註して下さい」とあるのも同様である、原判決は「若し被告人が売買の相手方だとするならば右工業所としては被告人に販売すれば足りその品物を被告人が第三者に如何なる値段で転売しようと関係がない筈であるから「新表は最低価格表ですからその意味で受註して下さい」と言う文言が矛盾する」といつて居るが前述の通り被告人と高橋とは前述の如き姻戚関係があり被告人が商品を転売することを前提としての取引であるから被告人が売買の相手方であつてもかかる文言は少しも矛盾しない。高橋の親切心でかかる文言を用いることは当然あり得ることである。以上述べるように原判決挙示の証拠を検討してもその認定のように委託販売契約の成立したことを確認する証拠はない。云うまでもなく刑事訴訟では疑わしきは被告人の利益に従うことはその大鉄則であり、一応の推測で所罰することはできない。人に刑事責任を負担せしめるには確乎たる明証がなからねばならぬ。動かすことのできない明白な証拠がない以上犯罪の証明はなかつたものと謂わなければならない。本件に於ては叙上の如く明確な犯罪の証明がないのに有罪の判決を言渡したのは刑事訴訟法第三七八条第四号に該当し取消さるべきものと信ずる。

(四)飜つて本件の取引は被告人主張のように被告人と畦津常喜との売買取引であることの証拠を挙げてみる。弁第一号証には畦津常喜の名義を以て帝国カーボン工業所と中妻三郎商店との代金決済の交渉であると明記して居る。弁三号証には「弊社より貴店渡し価格」とあり弁第三号証には当所から貴所渡と記載してある。尚弁第四号証にも「新価格表の一割引にて貴方渡しと致します」と記載がある。これらは即ち畦津と被告人との取引が売買である事の証左となし得る。更に検第七号証は被告人から畦津に対する註文書であり弁第五六号証は畦津の被告人に対する註文受書である。雇人と主人委託者と受託者との間には通常かかる註文書とか註文受書とかの交換はない。かかる文書の交換は両者の取引が普通の売買であることを裏書きしている。次に弁第十五号証は刷子代金の領収証であるが之には印紙が貼布してある。使用人より主人に集金を納める場合は勿論委託販売の場合でも印紙の貼布をするこは通常ない之も売買であることの証左とするに足ると思う。更に証人松隈寅七、佐田泰助、伊藤福三郎、伊藤俊男はいずれも齊しく被告人個人と売買契約をしたことも陳述している。これは被告人が畦津の使用人でないことの証左であるのみならず委託販売でもないことの証左と思う。勿論委託販売の場合は受託者が自己の名義を以て販売することがあり得るのであるが本件のような場合には買主は売主が受託者であることを知つて居るべきであるがいずれの証人も被告人が現品の販売を委託されて居ることを陳述したものは一人も居ない。以上の諸証拠により本件は転売を目的とする単なる売買契約であり(その間いろいろの特殊関係はあるとしても)両者の間には民事上の債権債務関係は存するとしても被告人に刑事上の責任を負わしむべきものではないと考える。従つて本件に於ては被告人には無罪の御判決あるべきものと思料する。

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